水谷驍「ジプシー 歴史・社会・文化」平凡社(2006)によれば、ジプシーの推定人口はヨーロッパ全体で560万人〜886万人と幅がある。人口比は0.79〜1.25%である。ヨーロッパ以外では米国に100万人前後というのが通説であり、中東(トルコに35万人という説あり)を除くアジア、及びアフリカにはほとんどいないので、世界全体で約1000万人と見積もられる。

 図には、欧米36カ国のジプシーの推定人口、及び各国人口に占める割合をグラフとして示した。

 ジプシーと呼ばれる集団は、中東欧のスロバキア、ハンガリー、ルーマニア、ブルガリアといったドナウ川下流地域やバルカン半島、西欧ではスペイン、フランス、そして大西洋を渡って米国に多く分布している。中東欧では人口の1割程度にも達する国が複数ある。

 ジプシーの呼称としては、外からの呼び名として、ジプシー系の名称とツィゴイナー系の名称とがある。前者は、ジプシー(英国)、ジタン(フランス)、ヒターノ(スペイン)、エギフト(ギリシア)、イェフェギット(アルバニア)、後者としては、ツィゴイナー(ドイツ)、ジガン(フランス)、ジンガリ(イタリア)、ツィガン(オーランド、ロシア)、ツィガニ(ブルガリア)、チガニ(ルーマニア)、ツィガニョーク(ハンガリー)、チゴーナイ(リトアニア)、シガーノ(ポルトガル)などがある。この他、フランスではボヘミアンとも呼ばれた。自称としては、ロマが最も一般的で、ロマニチャル(英国)、シンティ(ドイツ)、マヌーシュ(フランス)、カーロ(フィンランド)、カロー(ウェールズ)、ヒターノ(スペイン)などがある。

 正式名称として「スィンティ・ロマ」を使う場合が増えており、その場合、「スィンティ」とは中世後期以降にドイツも含めた中部ヨーロッパに定住していた少数民族の人々が自分たちのことをいう呼称で、「ロマ」は南東部ヨーロッパにいた人々が同じように使っていたものだとされる。

 ジプシーと呼ばれる集団は、サンスクリット語起源のロマニ語の諸方言を本来使っているとされることから、インド起源と信じられている(血液型もB型が多くインド人と近い。図録9450参照)。ジプシー集団が、バルカン半島の各地に見出せるようになったという記録は11世紀にさかのぼり、記録が増えるのは14世紀からであり、15世紀にはいるとバルカン半島を越えヨーロッパ各地でも記録されるようになった。報告された集団が後世のジプシーだと想定される根拠は、「肌と髪が黒く、見慣れぬ身なりで、女こどもをともなった家族集団で移動したこと、占いや手相見をやったこと、そして何よりも「(小)エジプト」の公爵その他を称する頭領に率いられていたこと」(水谷2006、以下引用は同書)などによるとされる。

 戦争や飢饉等にともなう貧民・流民層の大量発生にともなって、ジプシー集団もヨーロッパ各国を移動し、当初は目立たなかった各地における取締、迫害、排斥が16世紀に一般化する一方で、17〜18世紀スペインの定住策の結果社会統合が進んで、地域文化と融合したフラメンコなど独自文化を生み出すに至った場合も生じた。各地で独自な存在形態を有するに至ったジプシー集団の中で、フィンランドのカーロと自称する集団は、結婚制度なしの人口再生産(駆け落ちして子供を産み時間の経過により社会から認知)、決闘と血讐に基づく紛争解決(何世代にも及ぶ血縁集団間の抗争とそれを回避しようとする抑止力にもとづく問題解決)という独自の社会を形成した事例は興味深い。

 ルーマニアのワラキアとモルドバの両公国では15世紀までにジプシー奴隷制が成立した。貴族・修道院所有の奴隷は、家内奴隷ヴァトラシとして、農業、職人仕事、召使い、楽士などに従事する場合と「公の奴隷」ライエシ等として、年貢の支払いと引き換えに遊動と放浪生活の中で、伝統職人仕事、季節労働、砂金掘り・金の採掘などを行う場合があった。

 このジプシー奴隷制は、家畜のように手足・首に鎖や枷で拘束され、家族からも引き離されて競り市で売られる状況などに国際批判が高まり、19世紀半ばに廃止された。これをきっかけに、バルカン半島・同周辺地域から全世界へと向かう大規模なジプシーの大規模流出、「カルデラリの大侵攻」が生じた。移動の中心はルーマニア語の影響の明らかなロマニ語方言を使用するヴラフ系ロマと呼ばれる集団であり、「男も女も黒い髪を長く伸ばし、派手な金銀の飾りを身につけて、男はだぶだぶのズボンのすそをブーツにたくし込み、女は色彩豊かなロングスカートをはき、30人から40人、ときには100人を越える大集団で移動し、空き地に天幕を張って宿営する彼らの姿は、ゆく先々で注目されて新聞などで大々的に報道された。宿営地には近隣から多数の見物人が押し寄せ、なかには入場料を取って内部を案内した集団もあったという」。

 ヨーロッパ全体に広がる何波にもわたるジプシーの移動の中で、「カルデラリの大侵攻」は特に顕著であり、現在まで、ジプシーに関する固定観念の形成に大きく影響しているといわれるが、以前からの移動に加えて米国にかなりのジプシー移民が押し寄せたのもこの流れである。

 上述のジプシーの人口分布は、こうしたジプシーの移動の歴史の結果、形成されたものである。

 近年ではEU統合に伴う移動の制限の廃止により、スペイン、イタリアなど国によってはルーマニアからの移民が増えているが、その中にはジプシーの移動も多く含まれていると考えられる(図録1171a)。

 下にヨーロッパのロマ(ジプシー)観についての意識調査結果を掲げた。参考までにユダヤ人に対する同様の調査結果を掲げておいた(図録9038参照)。親ロマが反ロマを上回っているのはロマが比較的少ないスウェーデン、英国、ドイツ、オランダなどの国である。イタリアや東欧・旧ソ連では反ロマの方が多い。ヨーロッパにおけるロマ(ジプシー)の評判は、余り好ましいものとはいえないことが分る。なお、ヨーロッパのイスラム観については図録9030参照。

 海外ドラマでロマが主要登場人物として描かれたのを私が見たのは、ネットフリックスのポーランドのミステリードラマ「泥の沼」(3シーズン、2018〜24年)がはじめてである。ロマと言えばスティーヴン・キング原作の米国映画「痩せゆく男」(1996年)で呪いをかけるロマの老人が同じ裏社会のマフィアと死闘を繰り広げるというのが印象深かったので、そういう異次元存在としてしか欧米文化の中では登場しないものだと思っていたところ、妖しく重い歴史を背負ったマイノリティではあるが、人間としての希望や悩みをもつ役柄として登場したのには驚いた。さらにポーランドには「Infamia/インファミア」(2023年)というロマの現代少女を主人公にし、彼女がロマ族に誇りと違和感を同時に抱く姿を描いたネットフリックス・ドラマまである。

 ポーランドではロマの人数は他の東欧諸国と比較して少ないものの以下の記事に見られるように、ロマを人間扱いしようとする気風があるようだ。

「1950 年代以降、共産圏の国々の中ではじめてポーランドは放浪生活を続けるロマの人びとに住居と食を与えてその統合を試みた。その際には党員になれという命令を当局が施行していたことが明らかにされている。(中略)90 年代に入っても彼らに注がれる社会のまなざしは決して温かいものではなかったが、2000 年にポーランドに居住するロマの人びとが自らの手でロマ歴史協会を設立し、伝統や歴史を文献にして残すことで、社会にロマ民族のことをよりよく知ってもらおうとする試みが始まった」(千葉美千子「ナチズムの犠牲者としてのスィンティ・ロマの位置づけ―忘れられた犠牲者をめぐる考察―」2005年、北海道大学大学院博士後期課程)

 ドイツやソ連から民族として対等に扱われなかった歴史をもう一度正しくやり直したいという気持ちがポーランド人には強く、そのため、それ以上に対等に扱われないロマに対して他国より理解が深いのではなかろうかと感じる。なお、やや乱暴にロマを同化させようとする歴史シーンも「泥の沼」には描かれている。


 なお、ここで、ジプシー人口を取り上げた36カ国は、具体的には、米国、アイルランド、英国、ベルギー、オランダ、デンマーク、ノルウェイ、スウェーデン、フィンランド、ポルトガル、スペイン、フランス、イタリア、スイス、ドイツ、ポーランド、オーストリア、スロベニア、クロアチア、ボスニア・ヘルツェゴビナ、セルビア・モンテネグロ、マケドニア、チェコ、スロバキア、ハンガリー、ルーマニア、ブルガリア、アルバニア、ギリシア、モルドバ、ウクライナ、ベラルーシ、エストニア、ラトビア、リトアニア、ロシア(ヨーロッパ部)である。

(2006年7月4日収録、2015年1月26日ヨーロッパのロマ観データ追加、2016年7月14日ロマ観更新、2022年3月7日ロマ観更新、2024年3月20日正式名称「スィンティ・ロマ」、ポーランドドラマ「泥の沼」、3月29日同「Infamia/インファミア」)


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