江戸時代における2大都市である江戸と大阪(大坂)の町人人口の推移、男女比率はどう推移していたかをグラフにした。町人人口の江戸の市街各地区における分布は図録7852参照。町民以外の武士を含んだ人口推移は図録7851参照。

 江戸の人口は100万人であり、当時としては世界1、2の大都市だったというのが教科書的な通説となっている(図録1169参照、ただしここでは1800年に69万人とされている)。

 ただし、100万という数字は、江戸の人口の大きな部分を占める武家人口が極秘とされていて正確な記録が残っていないので、あくまで見積もりに過ぎない。

 一方、町人人口(町方人口)については、享保6年(1721)以降は江戸町奉行所によって精確な調査が行われている。「享保6年の50万1,394人以降若干の変動があるが、だいたい50万より55万のあいだを動いている。」(大石慎三郎「大岡越前守忠相」1974年)

 図はこうした町人人口について、江戸と大阪の推移を示したものである。だいたい江戸も大坂も江戸時代の前半には増加したが、その後、横ばいか減少の傾向だったことが分かる。

 一方、女性人口に対する男性人口の比率である性比については、諸国から江戸・大阪に流入した者が男性中心であったので、当初は、非常に高かった(男性人口過多であった)と推定されている。データのない武家人口についても、諸藩からの単身赴任が多かったため性比も高かったと想定される。

 グラフの値をみても江戸では享保7年(1722)に江戸の町方人口48万3,355人のうち男子31万2,884人、女子17万471人であり、性比は184と女子に対して84%男子が多かった(大石1974)。大阪についても1689年には奉公人のみであると76%男性の方が多かった。

 ところが、こうした状態は江戸時代を通じて変化した。江戸時代末期の江戸では、ほぼ性比は100、大阪でも100に近づいている。すなわち男女のバランスはとれていったと考えられる。江戸については、奉公人人口比率が江戸時代末にかけて大きく低下し、奉公人が雑業者層に代替されたからである。大阪においては商家を中心に奉公人が多かったが、女子奉公人、都市内婚姻の増加が想定される(斎藤修「江戸と大阪―近代日本の都市起源」、図録7855参照)。

 江戸や大阪において遊女が公娼、私娼を問わず多人数存在するようになった所以としてこの性比の高さが指摘されることが多い(ルネサンス期ローマ娼婦についても同様−図録9017参照)。ここで公娼とは、江戸の吉原と大阪の新町の遊女、私娼とは江戸・大阪の深川ほかの岡場所の芸娼妓を指す。ところが、性比の低下にもかかわらず、江戸や大阪の遊女人数が減少していったようにも思われない。性比の高さが遊女町の形成の動因となったとはいえようが、遊女町の維持存続には、また、別の要因を想定する必要があろう。

 なお、呑み屋や甘み屋が多かったなど江戸の飲食店事情は図録7840参照。

(2010年9月27日収録)


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