横山源之助の下層社会ルポの古典「日本の下層社会」(明治32年、1899年)では、最初にまず、東京の細民(貧民のこと)の実態を取り上げている。

 横山源之助は、東京の細民は下等労働者、より具体的には、最も多い「人足、日傭取」、次に多い「人力車夫」、さらに職人、内職仕事、工場労働者などから成っているとし、「東京市全体の上にて、細民の最も多く住居する地を挙ぐれば山の手なる小石川・牛込・四谷にあらずして、本所・深川の両区なるべし」と述べている。「特に本所区は工業なき東京市にては最も工場多き土地なるが故に、あたかも大阪市において見ると等しく工場労働者たる細民を見ること多きは最も注目するに足るべし」と言っている。

 しかし、横山が東京における細民の分布としてデータを掲げているのは、細民の中では「人足、日傭取」に次いで多い「人力車夫」の人数であり、それをここではグラフにしている。「人力車夫」を細民の代表として取り上げているのは「人足、日傭取」の人数の統計を得られなかったからだと思われる。

 当時の東京市15区別の人数を見ると、本所・深川2区はそれほど多くなく、浅草区が5,600人と最も多くなっており、神田区、芝区が4千人台でこれに次いでいる。

 本所・深川の人力車夫が比較的少ないのは、やはり、墨田川の向こう側に位置し、市内における交通需要に応えるには不利だったからではなかろうか。横山は「浅草区に細民多きは浅草公園と吉原あるが故とす」として、宗教や遊興を目的とする交通需要が細民の生活を支えていると示唆している。

 細民分布と関連して、東京市の各区の特徴を横山は以下のように記述している。

「日本橋区と浅草区とは、東京市中生活社会の中心たり。神田・本郷の両区は幾分か生活に縁遠き書生にて維持せられ、京橋区は性質を銀座通の上に示して皮相を西洋に取り、麹町区は諸官省にて維持される。ただ東京において特色を見るを得べきは、独り日本橋区と浅草区に存す。しかして日本橋区の特色は商人に現われ、浅草区は神田区の一部ととともに職人の上に示す。下谷区・小石川区・四谷区、細民の住める少なからずといえども、これを浅草区に比せば、言うに足らず」。

 横山の記述はないが、芝区の人力車夫が3番目に多いのは、芝区が東海道筋に当たっているからだと思われる。泉岳寺近くの芝車町(牛町とも)は関西出身の牛車挽きが集団移住したのが起源であるが、芝区(現港区)は、その後、牛車大工が考案した大八車、明治以降の人力車の製造・修繕などを経て日本の近代機械産業の発祥地となった(図録0207、図録2670参照)。

 人力車夫数については、やはり人口比が気になる。そこで、東京府統計書に記載されている人口(現住人員)100人当たりの人力車夫数を計算し、折れ線グラフで示している。

 人口当たりの密度が最も高いのは浅草区であり、100人当たり4.0人に達している。人口の方には子どもや高齢者が含まれるので、就業者当たりでは1割近くが人力車夫だったと考えられう。調査で訪れたバングラデシュの首都ダッカのリキシャ車夫がとんでもなく多人数である点に驚かされたことがあるが、明治期の東京も似たような状況だったのだと妙に納得する(注)

(注)インド等のリキシャは日本の人力車が起源である。「リキシャが日本からインドに伝わったのは1880年頃とされ、1919年にコルカタ市が最初に乗用として正式認定して以来、庶民の足となり人力車、サイクルリキシャ、オートリキシャへと進化を遂げました。人力車方式は今ではコルカタに数台残るだけとなり、1989年のインドで、筆者の主要移動手段だったサイクルリキシャも最近ではほとんど見かけなくなってしまいました」(住友商事グローバルリサーチ

 密度の高い区は、浅草区に次いで牛込区、下谷区が3.5人以上で続いている。

 2015年の国勢調査で東京23区の職業別就業者数で人口100人当たりの数を確認してみると、現代の人力車夫ともいうべき自動車ドライバーは0.8人とずっと少ない。当時の人力車夫密度に匹敵している職業人は、営業職の2.9人、生産工程職の2.4人、サービス職の4.4人などである。大くくりの事務職は10.4人と当然ながらもっと多い。

 こうした細民よりさらに底辺に位置する貧民の密集地である貧民窟については、当時、東京の三大貧民窟が有名だった。横山はそれらの人口分布データも記載しているので、グラフにした。

 横山は三大貧民窟の特徴を以下のように記述している。

「鮫ヶ橋にては谷町二丁目に細民最も多きが如し。家賃39銭の家屋を見るが如きは、東京市中恐らくは谷町二丁目を除きて他になからん。住民は日稼人足、および人力車夫最も多し。...万年町にては二丁目醜穢(しゅうわい)甚だしく、稼業は人足・日傭取・人力車夫に次いで屑拾すこぶる多し。むしろ万年町の特色なりと言うを得べきか。(新網は)もとより日稼人足・車夫・車力多しといえども、あたかも万年町に屑拾多きが如く、新網は四谷天竜寺門前(現新宿四丁目−引用者)と同じく、かっぽれ・ちょぼくれ・大道軽業・辻三味線等の芸人多きは特色なるべし。(中略)戸数多き上より言えば、鮫ヶ橋は各貧民窟第一に位し、新網は表面に媚を湛えて傍らに向いてぺろりと舌を出す輩多く、万年町の住民は油断して居れば庭のものをさらえゆく心配あり」(p.29〜30)。

 データ・グラフでは鮫ヶ橋の谷町一丁目の方が二丁目より人口が多いが、横山が言う「谷町二丁目」は谷町の二つの町という意味なのであろう。「四谷鮫ヶ橋の貧民窟」の地図(現状施設併記)はここ(注)。なお、維新後没落し刺繍職人をしていた元士族の家に生まれた映画監督成瀬巳喜男が卒業した小学校は貧民窟の子ども向けに開校した鮫ヶ橋尋常小学校(跡地は現在の若葉公園)である(図録5667参照)。

(注)私事であるが、所帯をもつまでの私の本籍は新宿区若葉町2丁目(元の谷町二丁目)であり、実際、幼稚園〜小学校低学年の時期には、日宗寺と道路の間の狭い家で暮らしていた。自宅の裏口から直接入ることができた日宗寺の庭は私の遊び場であった。鶏頭の花が咲く庭やカエルの卵でいっぱいになる池の思い出は今でもよみがえる。円通寺坂を上る荷車を推すのを手伝って駄賃をもらったこともある。当時、若葉町がかつての貧民窟であることは知らなかったが、そもそも低い土地であり、住んでいる人種も谷に降りる前の土地の住民(例えば四谷小近くの親が医者の小学校同級生)と比べて下等な感じがしたため何となく低級な住宅地だとは感じていた。

 鮫ケ橋については「新撰東京名所図会第三十九編四谷之部上」(明治36年)では状況絵図「鮫ヶ橋貧家ノ夕」(下図)を掲載するとともに、次のように記述されている。「四谷鮫河橋は、芝新網、下谷山伏町と並びて、東京市中に於ける三大貧民窟と称せらる。谷町を中心として凡そ卑湿の地、到る所、軒低く、壁壊れ、数千の貧民、蠢々如として纔かに雨露を凌ぐの状、愍(あわれ)なり。質屋は唯一の機関にして、九尺間口の米屋あり、薪炭商あり、酒舗、魚戸、古着屋、日用の肆、欠く所あらず、以て一社会を組織せり」(p.25)。


 人力車が複数停められているので車夫も多く住んでいたらしい。この絵を見た俳優の小沢昭一は、「愍」というより「親愛の情」がわいたと記している。「それは、居丈高な高利貸の催促に平身低頭する女や、看護する者とてなき床に伏す病人の風景に、わがバラックの昔(終戦後焼き出されて両親と子供だった筆者がやっと住めることになった池袋の応急罹災者用バラック−引用者)がよみがえるからでもあろうが、近頃、大道諸芸に関心を寄せる私としては、木魚を二つ持ったちょぼくれが、三味線の妻女と稼ぎから帰ったのを、老婆と子供が迎えているという風景に、一きわ心ひかれるものがあるからであろう」(「私のための芸能野史」ちくま文庫、p.220)。

 明治の文学者も鮫ヶ橋の貧民窟にはよほど目を奪われたのか、ルポ作家松原岩五郎が「最暗黒の東京」(明治26年)で詳しく取り上げ、泉鏡花が「貧民倶楽部」(明治28年)という小説の舞台にし、永井荷風も随想記「日和下駄」(大正3年)でまちの情景を描写している。泉鏡花は「鮫ヶ橋界隈の裏長屋は、人を容るる家と謂わんより、むしろ死骸を葬る棺と云うべし」などと記している。

 貧民窟の生成時期については、明治5年に陸軍省の命令で東京府が調査した資料によれば、谷町一丁目、谷町二丁目、下谷万年町二丁目の人口は、それぞれ、587人、658人、1,046人であり、横山が掲げた明治30年頃までの増加倍率は、それぞれ、4.3倍、2.3倍、2.2倍となっている(秋山健二郎ほか「現代日本の底辺第1巻最下層の人びと」1960年、p.103)。この間に、大きく貧民窟が拡大したことがうかがわれる。

 ただし、発祥の由来からは、江戸時代からの因縁の地だった可能性も高い。四谷鮫ヶ橋がスラム化したのは、低湿地だったことに加え、伊賀者の同心組屋敷として幕府から与えられた土地なので家持の町人が不在のまま店借の貧民が増えたためと考えられるが、その他の地域は願人坊主との関連が無視できない。

 平凡社の大百科事典の「願人坊主」の項目には「1842年(天保13)の町奉行所への書上には『願人と唱候者,橋本町,芝新網町,下谷山崎町,四谷天竜寺門前に住居いたし,判じ物の札を配り,又は群れを成,歌を唄ひ,町々を踊歩行き,或は裸にて町屋見世先に立,銭を乞』とあり,乞食坊主の一種でもあった。その所行により,すたすた坊主,わいわい天王,半田行人,金毘羅行人などとも呼ばれ,その演じる芸能は願人踊,阿呆陀羅経,チョボクレ,チョンガレなど多種で,後にかっぽれ,浪花節なども派生した」とある。下谷山崎町は万年町の江戸時代の名称である。上述三大スラムに四谷天竜寺門前を加えて明治期東京の四大スラムとされることもあるが、そのうち四谷鮫ヶ橋を除くすべてが願人坊主の居住地と重なっており、偶然とは思われない。劣悪な環境だからスラム化したのか、賤民と見なされていた芸人の居住地だからスラム化したのかは、両方だと言わざるを得ないのではなかろうか。

 関西地区では大部分のスラムで特殊部落と関連があるという特徴を有するのに対して、東京の場合はスラム類似の部落地区が震災や戦災で分散したせいもあってそうした傾向は余り認められないと東京都民政局長を歴任した都市社会学者の磯村英一は言っている(「スラム」講談社、1958年、p.185〜6)。しかし願人坊主との関連は東京では否定できない。この東西差のナゾを解明したいところである。

 スラムの住民である大道芸人に対する横山源之助の観察は細かい。「雨日は細民の苦しむものなりというといえども、なかんずく生活に影響を受くるは日稼人足と共に芸人の仲間なるべし。二、三日雨天の続くことあれば、辻三味線は三味線を、阿保陀羅読みは木魚を質入し、今まで前に据え居たりし膳までそのまま質屋に持ち行き、二、三日にして家は空虚となること一と月幾回もあり。雨ふる日、新網を往来せば、かれらは平常大道に滑稽を演じ、浮世を三分五厘とわいわい騒ぎ居るにもかかわらず、悄然と火の気なき火鉢を囲みて無言に空打ち眺めつつあるを見ること多し。貧は淋しき者なり。しかれども外観より見て雨天に芸人の打ち悄るるほど、同情を惹くものはあらじ」(p.46〜47)。

 こうした貧民窟の芸人が江戸からの花街新吉原に繰り出す様子は、樋口一葉の「たけくらべ」(明治28年)にも描かれている。「万年町山伏町、新谷町あたりを塒(ねぐら)にして、一能一術これも芸人の名はのがれぬ、よかよか飴や軽業師、人形つかひ大神楽、住吉をどりに角兵衛獅子、おもひおもひの扮粧(いでたち)して、縮緬透綾(すきや)の伊達もあれば、薩摩がすりの洗ひ着に黒繻子の幅狭帯、よき女もあり男もあり、五人七人十人一組の大たむろもあれば、一人淋しき痩せ老爺(おやじ)の破れ三味線かゝへて行くもあり、六つ五つなる女の子に赤襷させて、あれは紀の国おどらするも見ゆ、お顧客(とくい)は郭内に居つづけ客のなぐさみ、女郎の憂さ晴らし」(「にごりえ・たけくらべ」岩波文庫、p.77)。

 明治期東京のスラムは明治末までに東京市の中央から周辺へと拡散した。「襤褸の世界が、今や巣鴨に、大塚に板橋に、日暮里に、三河島に、千住に発散したのは今日の状況である。他方では工場職工、工場附属の人足、または例の燕の如き放浪人足は、深川本所の場末に拡がっている」(横山源之助「貧街十五年間の移動」明治45年−中川清編「明治東京下層生活誌」岩波文庫、p.278)。

 その後、鮫ヶ橋の貧民窟は新宿旭町(天竜寺門前)寄りに移っていきながら(磯村前掲書、p.184)、戦前まで残っていたが、戦災で一掃され、戦後は山の手の住宅地と化した。下谷万年町は関東大震災で焼かれ、そこのバタヤ(屑拾)が大挙移住して、1960年当時の三河島丸六部落(荒川区)、本木のバタヤ部落(足立区)を形成したという。下谷万年町は戦災にもあい、芝新網とともに昔の面影はなくなっている(秋山前掲書、p.103)。

 なお上記の町奉行への書上にあった橋本町(現千代田区東神田一丁目)は、かっぽれを願人坊主の大道芸から寄席芸にして流行らせた豊年斎梅坊主(本名松本梅吉)の出身地である。橋本町も明治前期にはやはりスラムだったが。明治14年の大火後に東京府によって買い上げられ浄化されてしまった(塩見鮮一郎「貧民の帝都」p.136)。豊年斎梅坊主は願人坊主出身であることを隠さず晩年に至るまで芝新網に住み続けたという。

 最後に、日本における貧民問題のパイオニアともいうべき横山源之助が国際比較上の日本の貧民問題の特徴をどう位置づけていたかを紹介しておこう(前掲書中の「日本の社会運動」第二節、p.374以降)。暗黒面を強調して注目を集めようとする現代の社会警鐘家とは異って真実を見極めようとする態度が感じられる。

「今日我が国においては、未だ欧米文明国に見るが如く、工業組織の不完全より堕落し来る貧民はあらざるなり。即ち労働の需用なきより、やむを得ずして貧民たりと言うを見ること極めて尠なし」。日本の貧民が貧民となった由来を探ると「あるいは一家の所得に比較して家族多く、生活の不如意なる者あり、親を失い夫を失いたるがために貧民の群に落ちたるもあり、あるいは身体の不具なるがために貧民たるもあり、もしくは酒食のために貧民となるもあり。しかしながら、その多くは偶然の事情のために不幸を来たし負債生じ不義理生じ、終に貧民の境遇より身を脱するを得ざるは最も多し。しかれどもゼネラル・ブースが『最貧困の英国』に描きたるエスト・ロンドンに住める者の如く、醜悪にして深刻なる貧民を見ること少なきなり。要するに日本の貧民は人生の不幸者のみ。人情の上より憐れむべきは甚だ多しといえども、これを経済上の一問題とするはなお未だしと信ず」。

 ただし、今後は工業社会の競争が激化して「東京の都会に東倫敦(エスト・ロンドン)を見るもけだし遠からざるべし」とも警鐘を鳴らしている。そして、儒教と社会主義が相通じていること、壮士を任じる浮浪人が多いこと、そして「我が国の下層社会は欧米に比較して割合に学問行わるること」から、「社会問題」が大きく勃興する懸念があるとしている。ここで「社会問題」とは社会主義運動を意味している。

(2021年5月31日収録、6月1日〜2日補訂、6月15日小沢昭一引用、7月4日たけくらべ引用)


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