太平洋戦争中に日本全国の都市が米軍機による空襲を受け、焦土と化した街もあった。ここでは、原爆被害も含め、都道府県別、及び主な被災都市別の空襲死者数を掲げた。死者は全都道府県に及んでおり、民間人だけで41万人を越えている。

 都道府県別には、原爆が投下された広島が14万人以上と最も多く、焼夷弾による無差別爆撃を受けた東京が10万人超でこれに次ぎ、第3位は広島に続いて原爆が投下された長崎の7万人超である。これら3都県で空襲死亡者の約75%を占めている。4位以下は大阪、兵庫、愛知(以上1万人以降)、静岡、神奈川、鹿児島、福岡と続いている。

 他方、空襲死亡者の最も少ない県としては、石川の27人が最も少なく、このほか、山形、長野、滋賀、奈良が100人未満となっている。

 大都市を抱える地域としては京都が132人と目立って少なくなっている。これは、大阪や兵庫を目的地とした空襲で費消できなかった爆弾の投下のみで、主たる空襲目的地とならなかったからであるが、その理由としては、米国による日本の文化遺産保護のための意図的な回避というより、軍需施設が少ないための優先順位の低さによるものと考えられている。

 また、米軍は1945(昭和20)年に入ると原子爆弾攻撃の実行計画を立案したが、その投下予定地として京都・広島・新潟・小倉・長崎の5都市を選んでいたため、それらの都市への焼夷弾攻撃は後回しになったためという理由も考えられる。

 ちなみに、長崎への原爆投下は第一目標の小倉(現北九州市)の上空が前日の空襲で煙が立ち込め視界不良だったため第二目標だった長崎に目標を切り替えたためという。

 都市別には、基本的には県庁所在都市など人口の多い中心都市の死亡者数が多い傾向にあるが、釜石市(岩手県)、日立市(茨城県)、長岡市(新潟県)、岩国市(山口県)、今治市(愛媛県)などでは、県庁所在都市ではなく県内の主要産業都市がメインの被災地となっており、製造業が特に空襲のターゲットとして狙われたことが分かる。

 図には軍直属軍事工場における犠牲者は含まれていないことに注意が必要である。例えば、豊川市(愛知県)では8月7日午前10時過ぎ豊川海軍工廠がB29爆撃機の大編隊による空襲を受け、派遣兵120名・動員学徒452名を含む工廠関係者2,500名以上の犠牲者を出した。その他、工廠周辺にも被害が及び、在宅中の児童21名、入学前の幼児22名を含む市民113名が犠牲となった。工廠関係の犠牲者は、豊川海軍工廠が直属の軍工場のため戦死として扱われ、軍人以外の犠牲者も海軍軍属として扱われたので、500人以上の民間人犠牲者を扱った上図には掲載されていない(資料)。

 東京大空襲など各地の空襲被害の詳細については、図録5226d参照。広島の原爆被害については図録7702参照。また、日本各地・各都市の戦災の状況については、総務省作成のホームページがある。また、空襲被害の日欧比較は図録5227b参照。

 空襲対象に関する米軍の意図や正当性については、東京新聞大図解「空襲被害」(2015年8月2日)に掲載された山辺昌彦氏(東京大空襲・戦災資料センター主任研究員)による解説文を以下に引用するので参照されたい。

「米軍など連合国軍による空襲は、日本の軍事施設を破壊するとともに、国民の戦争継続の意欲をくじくことによって日本を降伏させようとの狙いがあった。本土空襲の初期は、飛行機工場が第一目標であり、それができない時は第二目標として産業都市とみなした市街地を空爆した。工場爆撃の巻き添えを含め、民間人に被害が出ており、軍事施設だけでなく民間施設をも狙う無差別爆撃が、すでに始まっていたといえる。

 これが大きく変わるのは、1945年3月10日の東京下町大空襲からである。米国は一年前から、都市の最も燃えやすい人口密集地域を目標に設定し、木造家屋を効果的に焼く油脂焼夷弾を開発し、大型で航続距離の長いB29爆撃機とともに大量生産していた。

 これらがそろった3月に都市を焼き尽くす空襲を始めたのである。単に無差別攻撃というより、民間人を主な標的とした空襲だった。

 当時の国際法では民間人への空爆は禁止されていた。しかし、日本も日中戦争段階で中国の重慶などの都市を空襲し、それを現代の都市は高射砲や航空機で守られているので無防守都市ではなく、無差別攻撃をしてもよい、と正当化していた。米軍も日本の市街地爆撃に際し、そこは小さな軍需工場がある産業都市なので空襲する、などとしていた。

 そして戦争犯罪裁判では、連合国の空襲はもちろん日本の空襲も裁かれなかった。そのことが世界で今でも、盛んに空爆が行われ、誤爆の名のもとに民間人の被害が続いていくことにもつながっている。」

 太平洋戦中、日本の統治下にあった台湾では、戦後、空襲を受けたときには台湾におらず、抗日戦争勝利の立場の「外省人」の政権が長く続いていたため、空襲被害を受けたという事実は無視されてきたようだ。「90年代に民主化が本格化するまでは国民党が絶大な力を持ち、米軍の空襲が表だって語られることはなかった。当時の情勢はあまり知られていないのが実情だ」(朝日新聞2015年8月14日)。終戦前に中国から台湾に渡った人たちやその子孫は「本省人」と呼ばれるが、彼らにとっては、外省人とは異なり日本に勝ったというより空襲を受けたということの方が重たい事実なのである。台湾の空襲についてはここにも。

 なお、東京新聞の調べでは遺族に引き取られていない戦災遺骨が全国36カ所に約40万体ある。国は海外で軍人の遺骨は収集しているが、民間人の戦災遺骨については寺院や地域に任せているという。下には、地域別の数値をグラフにした。「空襲の遺骨は東京都が最多で、墨田区の都慰霊堂と弥勒(みろく)寺に計10万8500体を安置。大空襲を受けた大阪、横浜市では市営墓地などに、新潟県長岡市などでは寺院に納められている。神奈川県横須賀市の旧海軍墓地には、茨城県土浦市と愛知県豊川市の海軍施設の空襲死者が埋葬されていた。長崎原爆の遺骨は長崎市の追悼祈念堂(約9千体)、真宗大谷派長崎教務所(1万〜2万体)など3カ所に安置されていた。推定数しかない場所も多い。国の唯一の納骨施設は国立沖縄戦没者墓苑(糸満市)で18万5261体が眠る。沖縄県内ではほかに計5カ所の慰霊塔に約1500体残っていた」(東京新聞2017.12.4)。


(2015年8月5日収録、図録5226dの名称を引き継いで新規作成、図録5226dはメインのグラフ名そのままの「主な空襲による死亡者数」に変更、8月9日豊川市の事例紹介、8月14日台北市・台湾追加、2017年12月4日引き取られていない遺骨数)


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