マディソン推計の「1人当たりGDPの歴史的推移(日本と主要国)」を図録4545で掲げた。時期は700〜1850年に限定されるが、これをさらに近年の研究成果にもとづいて改訂した新推計(一橋推計)の結果を掲げた。

 日本については、図録1150aで示した古代・中世・近世の1人当りGDPの推移を、1874年の米価で明治期以降の実質GDP系列と接続し、マディソン推計にならって、この系列を1990年の購買力平価で国際ドル単位に換算した系列を掲げた。日本以外の主要国についてもマディソン推計以降の新推計を掲げている。

 日本の新推計はマディソン推計と同じく、古代、中世には、他の主要国より1人当りGDPが低かったことを示している。

 ただし、1280年の時点では日本はイングランドの4分の3程度の水準であり、極端に大きな差は認められない。その後、イングランドは、他の北ヨーロッパ諸国と同様に黒死病の影響による大幅な人口減で1人当りGDPが大きく上昇した。

 南ヨーロッパ、中国、インドでは1400年以降経済が停滞したのに対して、日本は持続的な経済成長を見たため、これらの国との差は縮小傾向をたどり、ついに、マディソン推計では江戸時代後期に中国、インドを上回るに至り、新推計では、江戸初期にインドを、江戸享保期以降には中国を上回るに至り、明治維新の時期にはすでにアジアの新興国としての地位を鮮明にしていたのだと考えられる。これを高島正憲・深尾京司・今村直樹(2017)「岩波講座日本経済の歴史2近世序章第1節」は、近代の経済成長における欧米とそれ以外の「大分岐」、西欧と東欧・南欧との「ヨーロッパにおける小分岐」に対し、「アジアにおける小分岐」と名づけている。

 江戸時代に日本経済が停滞していただけだったなら、明治の日本が西欧の後を追おうと企図できる状況自体があり得なかったのである。

 インド経済が後退したのは1600年英国の東インド会社設立以降、中国経済が後退したのは18世紀における英国の進出以降である。欧米の植民地化が大きな要因となったことは否定できない。この経済後退の影響が平均身長の縮小にまで及んだ点については図録2195参照。

 幕末・明治の日本人の暮らしを「簡素とゆたかさ」という特徴で記述した当時の外国人が日本と比べていたのは、エンゲルスが描き出したロンドンのスラム街や植民地化で衰退した中国だったと渡辺京二「逝きし世の面影」は指摘している。

「決定的なのは、彼らが見たのが、マルコポーロの前に現われた光り輝く文明としての中国ではなく、西洋人の挑戦によって崩壊しようとする異民族支配下の専制帝国の混乱した末期だったということだろう。オールコックが「あらゆる物が朽ちつつある中国」と言うのも、彼が中国で各地の領事を歴任したのが、阿片戦争直後から太平天国の乱のさなかにかけてであることを考慮すれば、何の不思議もないことになる。ボーヴォワルは「石ころを投げ、熊手を振るってわれわれを殴り殺そうとした」中国人民衆を、「この地球上で最も温和で礼儀正しい住民」である日本人と比較するが、そうした中国民衆の反応は彼ら自身の侵入が招いたのだということにいささかも気づこうとしない」(平凡社ライブラリー、p.137)。

 こうした記述は、この図録や図録2195で中国の経済や中国人の身長が清朝末期の混乱や西洋人の侵入で大きく後退していたというデータ上の裏づけとともに読むとき、説得力がいやがうえにも増すのである。

 日本の場合は、アジアの大国、インド、中国の影に隠れていて、欧米による植民地化への取り組みが遅れ、幸いなことにその間の独自の経済発展により国力が養われていたため、植民地化をこうむらず、独立を失わずに済んだので、インドや中国のような経済の後退を免れたものと考えられる。

(2017年12月22日収録、2018年5月20日渡辺京二引用)


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