1.銘々膳からチャブ台を経てテーブルへ


 戦後まもなく生まれた我々の世代にとって郷愁を呼ぶ家庭のイメージはチャブ台での食事である。チャブ台とは畳の上での利用を前提とし、円形の甲板に折り畳みが出来る脚をそなえた場合が多かった床座式の食卓であり、頑固親父が家族に怒って、上に並べられた料理や食器とともにチャブ台を一気にひっくり返すシーンがテレビのお笑いコントで何回も繰り返された。

 ここでは、国立民族学博物館の研究班が行った調査結果から、チャブ台以前に長く日本人の食卓の主流であった銘々膳(一人一人の膳)からチャブ台を経て、椅子式のテーブルへと変遷していった日本人の食卓形式の変遷を図録とした収録した。

 銘々膳は今でも旅館での宴会などにその形態を残しているが、個人個人の食事が膳に盛られており、食器・箸が入った箱が膳になる箱膳が庶民の世帯では主流であった(使用人のみが箱膳であるような場合もあった)。

「箱膳を使用した場合、膳とそこに格納された食器の管理は、原則として、使用者にまかされていた。食事がすむと、食器を湯茶ですすぎ、フキンでぬぐい、箱膳のなかに格納し、自分で膳棚にもどすのであった。食器を洗うのは、一ヶ月に2〜3きまった日に、主婦や使用人が一括しておこなったのである。...衛生思想の普及もあいまって、チャブ台が採用されると、毎回の食事が終了するたびに、全員の食器を一括して洗うようになった。」(石毛直道「食卓文明論 - チャブ台はどこに消えた」中公叢書、2005年)

 チャブ台は、核家族化していく狭い住居の都市居住者にとって、格納に便利なため、またおかずの多様化や毎回食器を洗う必要のある油の多い料理にも対応しているため合理的と考えられたので普及していったと思われる。

「「はこぜんライフ」は、土間の流し、膳棚、イロリの間など、江戸時代の延長線上にある住居空間の構成に密着し、チャブ台は「茶の間」を中心とする都市の小市民的住居空間と結合する食卓である。」(同上)

 グラフによれば、昭和戦前期から戦後の高度経済成長期において全盛であったチャブ台は、1970年代からは椅子とテーブルに取って代わられた。一般にテーブルが普及したのは1956年に日本住宅公団が2DKの集合住宅を供給するようになったからだといわれる。もっともそれ以前、昭和20年代に農村部において推進された生活改善普及運動において農家の「台所改善」事業として、農作業との兼ね合いが合理的な土間でのテーブル使用が進んだことも重要であったといわれる。

 なお、食卓の雰囲気は、3つの段階で大きくことなっていることが下の図からうかかがえる。

 はこぜん(銘々膳)の時代には、食事の際の会話は禁止である場合が多く、もっぱら父親が必要なことを喋っていた。テーブルの時代には、会話は自由となり、話題の中心は父親から母や子供、あるいは祖母へと移った。チャブ台の時代はその中間である。テーブルの時代となり、チャブ台をひっくり返すこともなく、会話も自由となったが、家族めいめいが違う時間と場所で食事をとる個食化が進み、会話自体が成り立たなくなってきたのは皮肉なことである。

2.銘々膳の歴史

 それでは銘々膳はいつ頃から日本に定着したのだろうか。日本における銘々膳の歴史は以下のようにまとめることが可能であろう。

 世界各地の食の現地調査を行った中尾佐助は食器の歴史では、個人食器より共食器が先行したと論じている。「食事に食器を使いはじめた初期の段階では、やや大型の容器に料理を盛り、そこから多くの人が食べ物を手で取って食べていた。その当時の食器はすべて共食器で、個人食器はなかった。現在、文明国の多くは個人食器と共食器をもち、それを組み合わせて使っている。しかし、主に共食器しか使わない民族も多い。」(中尾佐助「共食器の文化、個人食器の文化」の写真解説(週刊朝日百科「世界の食べもの」136号、1983年))

 フランス料理レストランなどで、共食器である大皿に盛られた料理を個人食器である銘々の皿に盛り分けることが多いが、「この作業を調理場でなく、客の面前で行う背景には、共食器の使用が個人食器に先行したという歴史がうかがえる。」(同上)

 床の上に座って食卓なしで食事をする民族がいまなお多い中で、ほとんど例外的に中国とヨーロッパでは食卓(テーブル)のうえに食器を置いて食事する文化が発達し、共食器とともに銘々の皿、スプーン、フォーク、箸など個人食器が使用されることとなった。「座食は食事中に移動しにくい食卓形式である。そこで個人食器に盛りつけられた料理を、その前に座って食べることになる。当然、個人食器がよく発達する。個人食器を個人用の膳の上に並べるといっそう便利になる。膳は日本、朝鮮、中国(四川省など)、それにインドのマハーラージャー(王侯)料理などに登場してくる。日本では奈良朝の宮廷で、膳と個人食器の使った饗宴がみられる。実際、日本における膳と個人食器の発達はすばらしいものである。日本は個人食器のバラエティに富んでいることでは世界無比の国といえる。」(同上)

 日本の個人食器と銘々膳の由来が土着在来型なのか中国からの輸入型なのかは明解でない。弥生時代までの土器には個人食器はあらわれないが、古墳時代からは個人用の小型食器があらわれるという(山口昌伴「食器の発生と歴史」(週刊朝日百科「世界の食べもの」136号、1983年))。食器そのものに足をつけた高坏(たかつき)も、同時期、共食用から個人用に発達した模様である。床に直に置かれる高坏は膳ではなく、3世紀の魏志倭人伝にも倭人は「竹製の高坏から手で食べる」とある。平安時代には高坏が個人用の食器を載せる台として現れ、銘々膳の1つのルーツともとれる(小泉和子「食膳の歴史」(週刊朝日百科「世界の食べもの」136号、1983年))。

 一方、中国由来の食卓机が平安時代には貴族階級でわずかに行われたが、中世以降になると机は食膳としては余り使われなくなり、最初は脚のない折敷(おしき、縁の低い折櫃(おひつ))、今の盆に当たる盤に脚や台がついて多様な銘々膳が発達し、日本人の食膳として主流となった。これがチャブ台に変わるまで日本人の食卓として続いたのである。この銘々膳が高坏から発達したのか中国や朝鮮の膳から発達したのかは不明である。

 16世紀に訪日した南蛮人は見慣れないこうした日本人の銘々膳の食事について故国に報じている。渡辺実「日本食生活史」(吉川弘文館、1964年)から孫引きする。「彼等は我等の如く悉く一卓にて食することなく、各人約1パルモ半(1パルモは22センチ)の甚だ清潔なる机に着き、美味一切を之に載せ、若し数多くして此机に載する能わざる時は他の小さき机に載せ之を左右に据う。」(1565年のパードレ・ガスパル・ビエラがポルトガルのパードレに送った手紙)、「日本人の食膳は常に清潔にして且つ美を尽せり。(中略)食卓は方形にして低き1つの脚ありて1人1卓なり。」(クラッセ「日本西教史」)西欧人は当時皆でテーブルを囲んでいたが、まだナイフのみを使って手食していたという。よほど雑然とした食卓だったのであろう。

 こうした銘々膳が長く日本人の食卓の主流であったが、上記のとおり、大正から昭和にかけてチャブ台へと変化した。ちゃぶ台は、「座って食べるという点は日本在来の習慣であり、何人かでひとつの卓を囲む様式は西洋から来たものである。」(小泉、前掲)そして、「ちゃぶ台(とくに円形のもの)は座食ではあるが共食器に手を伸ばしやすく、丼や大皿などの共食器の登場を促すことになった。」(中尾、前掲)すなわちチャブ台へのシフトにより、日本史の長い期間を経て、再度、共食器が発達しはじめたというわけである。

 なお、関連して、箸の使い方の国際比較を試みた図録3854(箸の持ち方)を参照。

(2009年9月29日収録、10月6〜8日銘々膳の歴史を追加)


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