メンタルヘルス障害(心の病、精神疾患)は、個々人にとって苦痛であるばかりでなく、治療費や仕事の効率が落ちたり仕事ができないことによって失われる経済的なコストは計り知れない(DALY指標による寿命換算の社会的コスト計測の試みは図録2050参照)。失われた経済的コストの金額評価は英国ではGDPの2%以上と見積もられている(OECD Factbook 2009)。

 日本でもメンタルヘルスの問題は近年大きくクローズアップされているが、他国と比較して日本の状況はどの程度なのであろうか。ここでは、WHOによって大規模に実施された疫学的調査(世界メンタルヘルス調査)の結果を引用しているOECD Factbook 2009のデータを使って各国比較のグラフを作成した。

 調査では共通の診断法に基づき各種の障害と重症度、受診率(診療を受けたかどうか)の状況を調べている。対象となった障害は、不安障害(anxiety disorders)、感情[気分]障害(mood disorders)、衝動調節にかかわる障害(disorders linked to impulse control)、アルコールや薬物の使用による障害(disorders due to use of alcohol and drugs)である。

 メンタルヘルス障害の有病率(prevalence)を過去12月(年間有病率)と12カ月と限定せず過去に患ったことがあるかの人口比(生涯有病率)で見てみると日本は年間有病率でイタリアに次ぐ低さ(人口比8.8%)であり、生涯有病率では最低水準(18.0%)である。

 日本は先進国で最も高い自殺率水準であるので(図録2770)、自殺の引き金となるメンタルヘルス障害の有病率も高いと考えられているかも知れないが実は逆なのである。自殺率では日本の半分の米国のメンタルヘルス有病率が対象10カ国の中では最も高く、ニュージーランドが米国に続いている。

 確かにメンタルヘルス障害が破滅的な行動に結びつく可能性は高いと思われるが、それが自殺というかたちを取るか、肥満、アルコール・薬物依存、賭事、犯罪、他殺・傷害、無謀運転、社会騒乱、戦争等、何に結びつくかは各国の宗教、伝統、習慣など精神風土の違いや社会状況、歴史的経緯によっていると考えられる。

 いずれにせよメンタルヘルスの状況から判断すると日本は相対的にストレスの少ない社会であると断言することも可能であるし、日本人はノー天気な国民と決めつけることも不可能ではない。

 この調査だけでは信じられないという向きには、うつ病・躁うつ病の深刻さを国際比較したWHOデータでも日本が最も軽く、米国が最も深刻であることを示した図録2156を参照されたい。また仕事のストレスに関する国際比較に関しても日本は比較的ストレス度が低くなっており、パラレルな傾向となっているのが興味深い(図録3274参照)。

 第2図以下では、メンタルヘルス障害の内容、受診率について掲げた。

 第2図は障害タイプ別の年間有病率のグラフであるが、各国とも不安障害が最も多く、感情障害(うつ病・躁うつ病など)が続いている。衝動調節障害や薬物乱用は比較的少ない。日本は不安傷害、感情障害ともに各国の中で最も低い有病率となっている。各国とも各障害はメンタルヘルス障害全体の有病率と概して比例した高さとなっているが、米国の衝動調節障害だけは特段高い値となっているのが目立つ。

 第3図には軽度、中度、重度に分けた重症度別の年間有病率を掲げた。日本は、軽度が少なく、重度、中度が多くなっており、重度だけであると下から4位となり、中度だけであると高い方から第4位の水準になっている。また重度だけで見ると米国よりニュージーランドの方が多い。

 次ぎに、メンタルヘルス疾患の患者が治療を受けているかである。第4図では重症度別に受診率を掲げている。当然であるが、各国とも重症な患者ほど受診率が高くなっている。もっとも重度の患者でも受診率が20〜65%となっており、治療を受けていない精神疾患の患者が世界的にかなり多いことがうかがわれる。

 重度患者の受診率についてはデータのない国もあるので、中度の患者の受診率で各国を比較すると、ベルギーの受診率が50.0%と最も高く、日本は16.7%で最低である。心の病気に関しては日本の場合は病院に行かない割合が非常に高いのである。日本の場合は、メンタルヘルス疾患の患者が多いのが問題なのではなくて、むしろ、病気にかかっても医者に見てもらわない、見てもらいにくいのが問題なのである。

 ここで比較対象となっている国は10カ国であり、年間有病率の低い順に、イタリア、日本、ドイツ、スペイン、ベルギー、メキシコ、オランダ、フランス、ニュージーランド、米国である。

 なお、欧米諸国の男女別メンタルヘルス障害のデータを別資料から以下に掲げる。いずれの国でも女性の方が罹患率が高くなっている。デュルケームは19世紀後半ばのデータを検証し自殺は男性が多いのに精神病患者は女性の方が多い点を指摘しているが、この傾向に変わりはないことになる(「自殺論」1897年)。日本のうつ・躁うつ病患者も女性の方が多いことは図録2150でふれた。


(補論1 抗うつ薬の影響)

 日本のうつ病患者が1999年以降急激に増加している点に関して(図録2150参照)、従来のクスリに比べて薬価が高い新規抗うつ薬SSRIの登場に伴って、製薬会社が医師向けの講演会やインターネット、テレビCMなどのうつ病キャンペーンを盛んに行った影響が大きいことが報道されている(読売新聞2009.12.4、2010.1.6)。

 この点と関連して、1980年代のうつ病有病率と上掲の感情障害有病率を比較したグラフを下に掲げた。

 これを見ると国際的にうつ病の多い米国やフランスは1980年代には、欧米の中では、むしろ、うつ病の少ない国であったことが分かる。精神科医の冨高辰一郎氏はこうした変化について、下に掲げた図7から抗うつ薬処方の頻度と伸びが米国とフランスで大きいことを示し、新薬の影響の大きさを指摘している(「なぜうつ病の人が増えたのか」2009年)。


 確かに、両者には相互関係がありそうである。ドイツでは製薬会社のMR(営業職)が少なく、市販薬比率が高いため、またイタリアでは保険適用がSSRIにされていなかったため、両国ではSSRIの普及が遅れた点の指摘を受ければ、ますます、そう思わざるを得ない。また、それほど効くクスリなら新薬の投与により、患者が減少してもおかしくないのに逆に投与の多い国ほど患者が増加している点もおかしい。日本で急にうつ病患者が増加したという点にもこうした何らかの社会的要因を想定したくなる。

 ただ、抗うつ薬投与と患者数のパラレルな伸びの事実だけでは、患者が増えたから新薬投与が増えたのではという逆の因果関係の側面も大きいのではという疑問がなかなか消えない。実際、冒頭に掲げたメイン図録においては、感情障害だけでなく、他のメンタルヘルス障害についても、米国やフランスでは有病率が相対的に高いのであり、抗うつ薬のSSRIだけに要因を求めることは難しいのではと感じてしまう。この点に関しては冨高氏の次ぎの指摘が参考になる。「少し専門的なことになるが、2000年以降SSRIはうつ病だけでなく、不安障害や強迫神経症への適応が世界的に承認され、うつ病以外の疾患にも処方されるようになった。」(前掲書)

 いずれにせよ、精神健康にかかわる重要性の高い問題であり、専門家の分かりやすい研究と説明、そしてジャーナリストの的確な報道が望まれる。

(補論2 東アジア諸国におけるうつ病有病率の低さ)

 上図に示した1980年代のうつ病有病率では、日本のデータはないが、韓国、台湾の低い有病率が示されている。冨高辰一郎氏(前掲書)によれば、「国際的な疫学調査を行うと、東アジア諸国(中国、韓国、台湾、日本)は欧米に比べて、いつもうつ病患者の罹患率が低い。...米国で人種別のうつ病調査を行っても、アジア系は、白人や黒人に比べてうつ病の罹患率が低い。」ということである。

 その原因としては種々の説があるらしい。すなわち、東アジア人の特徴として、

@恥の文化からうつ病と認めたがらない。

A魚食によりオメガ3脂肪酸が摂取され予防効果を及ぼしている。

B遺伝的にアルコール分解能力が低く、その結果、アルコール依存や薬物依存が少なくなり、ひいては、うつ病を併発することも少ない。

などである。

(2009年4月13日収録、2010年1月6日補論追加、2012年6月5日男女別メンタルヘルス障害の図を掲載)


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