江戸時代(長崎等からの昆布輸出)

 江戸時代には長崎を通じて日本から中国に昆布が輸出されていた。第1の図には、この昆布輸出の推移を掲げた。

 1698(元禄11)年に、中国船の来航増加と輸出銅の不足により、幕府が、銅代物替として俵物(煎海鼠、干鮑、鱶鰭)の輸出を公定してから、以前にも増して海産物の貿易が増加し、主たる貿易品となった(荒居英次(1975)「近世海産物貿易史の研究―中国向け輸出貿易と海産物 」吉川弘文館、以下同様)。

 従来の見方では俵物貿易に重きがおかれていたが、実際は、昆布を中心とする諸色海産物(昆布、鶏冠草、所天草・若布、鯣(スルメ)、干魚、干貝、鰹節)の輸出が俵物を上回っていた。

 図にように江戸期を通じて昆布は輸出されていたが、1791年に5千トンを越えることもあった。幕末の開港後には、当初、長崎、すぐに直接箱館(函館)から輸出されるようになり、輸出量も1万トン近くに拡大した。

江戸時代後半(琉球からの昆布輸出)

 江戸時代には、琉球(沖縄)から中国への進貢貿易にともなって、昆布が輸出されていたので、これについての推移を第2の図に示した。昆布のほか鰹節やフカヒレなどもこの進貢貿易で輸出された。

「進貢貿易の輸出品として海産物は重要な位置を占めた。薩摩ルートを経由して琉球にもたらされた鰹節や昆布は国内でも広く受容され、18世紀末には琉球下りの昆布を一手に扱う役所として「昆布座」が那覇に設置された。昆布と豚肉をあわせて炒めたクーブイリチー等、昆布を使った琉球料理は多い。(中略)蝦夷地産の昆布流通ネットワークが南下し、琉球の料理文化にも大きな影響を与えたのである。」(真栄平房昭(2003)「琉球貿易の構造とネットワーク」(豊見山和行編「琉球・沖縄史の世界」吉川弘文館))

 こうした歴史の影響を現代に伝える昆布消費の地域パターンについては、図録0668参照。

 江戸幕府によって半公認されていた正規の取引の他、薩摩藩に利益がもたらされるような直接・間接の密貿易がどの程度あったかは分からない。加賀藩油屋廻船神速丸(じんそくまる)の難破(1828年)で昆布・ニシンの返り荷として薩摩からの抜け荷薬種が摘発され、富山藩密田家廻船長者丸の難破(1838年)で薩摩藩向け抜け荷昆布が判明したことなどから見て、かなり大量の密貿易が行われ、これによって薩摩藩が得た資金が倒幕資金に当てられたことは確かであろう。

明治期前半(函館からの昆布輸出)

 第3の図には、明治期前半の函館港からの昆布輸出の推移を示した。

 函館(当時は箱館)は1859年(安政6年)に神奈川・長崎とともに貿易港として開港した。小樽、釧路、室蘭で明治20年代に特殊品開港、明治30年代に一般開港が認められるまで北海道ならびに東北地方における開港場は函館港のみであった。そして「明治前期を通して、昆布などの清国向け海産物輸出に特化してきた函館港の外国貿易は、明治期後半に至り、昆布以外の輸出品の台頭や漁業貿易の進展で新たな展開をみせるようになったが、明治後期においても、昆布の輸出は首位を占め、昆布の清国輸出の消長とその商況は、依然、函館の経済界のみならず、道内昆布産地の漁業者にも多大の影響をあたえていた。」(「函館市史」)ここで「漁業貿易の進展」とは日露漁業の展開、すなわち「露領沿海州、カムチャッカ半島へ出漁船が、函館から多数の食糧や漁業資材を積込み、現地から大量の海産物(塩蔵サケ・マス)をもち帰るようになったこと」(同上)を指す。

 明治期前半の函館港からの昆布輸出は図の通りの推移となっていた。輸出量は4〜5千トンから1万トン以上へと増加しており、輸出額は多いときで日本の水産物輸出額の3割に達していたが、1880年代には10%台へと低下した。日本の総輸出額に占める割合も1〜2%と小さくはなかった。生糸、茶という2大輸出品目には及ばなかったが、これらに次ぐ石炭、陶磁器と並ぶ地位を有していたといって良い(図録4750参照)。

 明治期前半の函館港からの昆布輸出について「函館市史」はこう述べている。「海産物を中心とし、かつその市場が清国に集中するという特性は開港以来、函館が持ってきたものであり、明治前期においても海産物輸出港としての函館の機能と特性は開港以来一貫して継承している。それは言うまでもなく函館が道内の生産物の集散基地であったことによる。そしてこの特性は明治前期では一貫して失われことのないものであった。また特にこの時期は昆布市況の変動が函館市場における外国貿易を規定するといっても過言ではない。(中略)輸出品を個別でみると昆布がたえず首位の座を占めている。輸出金額に占める割合は40パーセント台から70パーセントの間であり、特にこの期間は60パーセント台を占める年次が多い。昆布は外国貿易品のみならず国内、主に関西市場行きのものもあるが、輸出用と国内市場とでは品質に違いがあった。輸出用の昆布は長切昆布で主産地は根室をはじめ日高、釧路産が多い。清国市場における昆布の用途に関し「清国民ハ昆布ハ炭毒ヲ消スノ効アリト称シ需用者ハ其大部清国ノ中流以下ノ社会ニシテ中流以上ハ多ク之ヲ食スルモノナシ従ッテ其売行先キハ都会ヨリハ寧ロ地方山邑農村ヲ多シトス」(『清韓貿易視察報告書』)とあるように特に塩分の欠乏しやすい中国の内陸部での需要が大半を占めた。明治元年に函館で清国商人が大量に買い付けするようになって昆布の輸出量は2万石台へと増加する。また買い付けが活発化するなかで価格も高騰するが生産量も増加し、今度は価格が低落ということが繰り返された。」

 清国商人の貿易独占に対して、日本商人や昆布生産者が日本昆布会社への共同集荷、直接輸出の体制をつくって対抗したが(1889〜94年)、この会社の倒産で再度清国商人の支配に復することになった。

(2016年5月2日収録)


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