日本のお茶(製茶)の生産・消費及び輸出入の明治初期以降の長期推移をグラフにした。

 日本には、抹茶、茶道の伝統、各地における番茶、釜入り茶、煎茶等の飲茶習慣があったが、生産が本格的にはじめられたのは、輸出向けの煎茶においてである。

 煎茶が普及する前、各地で多く飲まれていたお茶は、茶以外の植物葉の利用も含み、また煎茶のようによく揉まず、手間をかけず日なたで乾燥するため出したお茶の色が茶色の番茶が多かったと思われる(茶色という色のおこり)。出し方も煎茶のようにお湯を入れて毎回急須で淹れるというより(よく揉んであるとすぐ出る)、土瓶で朝煮出して1日何回もお湯をそそいで水分補給も兼ねてお茶を飲むというようなスタイルだったという(高宇2006)。

 幕末の開港後、日本はこれといった輸出産品がなく、生糸と茶が2大輸出産品であった(及び海産物)(図録4750参照)。お茶の輸出市場は米国が中心であった。「明治時代をつうじて、製茶輸出のおよそ80%以上がアメリカ合衆国に、10%前後がカナダに輸出されていた。」(角山1980)

 英国は、18世紀初頭には緑茶消費の方が多かったが、この頃はすでに紅茶消費が主流であり(下図参照)、日本の緑茶は好まれなかった。ちなみに英国への紅茶輸入の仕出国は中国が主であったが、1823年のアッサム種の発見以降、インド・セイロンでのプランテーション経営が進展した結果、日本と同様に小農経営中心の中国のシェアは縮小しつつあり、1887年には中国紅茶は半数を下回るに至っている。


 米国は英国の東インド会社の茶の専売や茶税に抵抗したボストン・ティー・パーティから独立戦争がはじまった経緯もあって、茶よりコーヒーを好んでいた。お茶にしても紅茶ではなかった。米国では「ティといえば緑茶のことで、緑茶に砂糖とミルクを入れて飲んでいた」(角山1980)。緑茶は貧民階級の飲物だったらしい。「日本茶ハ神経ヲ刺衝スルコト強キガタメ...北米合衆国及カナダノ伐木者ハ日本茶ヲ消費スル巨擘タリ」(25年中カナダ貿易景況)。エドガー・アラン・ポーの準推理小説「長方形の箱」(1844年9月)でも主人公がチャールストンからニューヨークへ向かう定期船で「濃い緑茶の飲みすぎのせいで、夜よく眠れなかった」というくだりがある(「ポオ小説全集W」創元推理文庫、p.84)。

 グラフに見られるように、19世紀後半にかけて、日本の製茶生産と製茶輸出は拡大の一途を辿っていた。全国各地からお茶が横浜に集められるとともに、1869年に牧ノ原への士族授産の入植後茶園が開墾され1877年には500町歩へと拡大したのもこうした流れに沿うものであった。

 当初、輸出茶について、中国伝来の着色茶、あるいは贋茶、まぜもの茶などが問題となった。着色については中国茶に倣った面が大きいが、玄米茶がまぜもの茶ととらえられたりしたことからも分かる通り、地域ごとの多様な茶が品質のばらつきに結びついていた面もあると考えられる。1882年には米国議会で不正茶輸入禁止条例が成立し、これに対応するため84年には中央茶業組合本部が結成された。日本の茶業組合が輸出対策としての品質統一のため作られたという点にもお茶が輸出向けの産品だった由来があらわれている。

 図中グラフにあるとおり、米国市場では、中国緑茶を圧倒して日本茶が躍進し、米国における緑茶消費も拡大した。下に当時の米国における日本茶のパッケージを掲げた。


 しかし、19世紀末からは、米国においても英国に遅れて、紅茶の消費が徐々に増え、ついに1910年代には輸入量が緑茶を上回るに至った。日本茶の輸出も1891年の2.4万トンのピークの後、長期低迷の時期に入った(1917年3.0万トンは第1次世界大戦に伴う特需)。日本緑茶とインド・セイロン紅茶とでは、後者の大規模製茶機械加工、冬場まで茶葉を摘める有利性、使用する低賃金クーリー労働力といった生産性格差がある上、何より当時の流通技術では品質保持が紅茶に有利という点から日本緑茶は低迷を続けたという(角山1980、高宇2006)。

 米国緑茶市場の収縮に伴って、紅茶生産への取り組み(緑茶経営からの転換に加え、大規模機械式生産の構想、台湾での大規模経営の構想もあった)、あるいは、中国茶を好んでいたロシア南部、中央アジア、中近東、北アフリカ方面(戦時中の満州、内蒙古)への輸出努力が戦前、戦後と続けられたが、長期低迷を挽回するには至らなかった(1952年1万トン輸出の2/3は北アフリカ向け玉緑茶による)。

 日本緑茶の輸出振興として、砂糖やミルクをいれない本来の日本茶のPRも行われた。1893年のシカゴ万博、1900年のパリ万博などで、セイロンなどに対抗し日本の茶店を出したが、「茶道文化・精神文化を強調する緑茶の宣伝は、栄養と健康をアピールする紅茶の物質文化の宣伝にはとうてい敵わなかった」(角山1980)と言われる。岡倉天心が在米中に出版した「茶の本」(1906年)も茶道の精神を解説し好評だったが、緑茶の挽回には役立たなかった。

 日本茶輸出の減少については、これまで述べてきたような米国ニーズの紅茶への変化、紅茶経営との生産性格差、PRべたなどがあげられることが多いが、日本の輸出額全体におけるお茶のシェアの縮小が、1890年代以降、順番に、絹織物、綿糸、綿織物のシェア上昇によってもたらされていることからも分かるとおり、お茶の輸出に頼らなくてもよくなったという理由も大きいと考えられる。また生産者の立場からは輸出に頼らずとも内需に頼ることができるようになった面が大きい。

 日本茶の輸出状況の変化に加えて、日本茶の環境変化として重要なのは、内需の拡大である。大正年間には、輸出と消費が逆転しており、輸出向けの煎茶は内需向けにも順調に拡大していき、年間1人当たり200グラム程度の消費が、昭和戦前期には400グラムに達した。本格的な煎茶生産は輸出向けにはじまったのであるが、ついに煎茶が日本人の生活習慣に根付くことになったのである。そして、戦後、高度成長期を経て、1970年前後には1s以上にまで達した。

 その後、コーヒーや炭酸飲料等との競合で、1人当たりの消費量は低迷し、1984年には880グラムまで減少したが、80年代後半から再度1人当たりの消費は回復基調となった。これはボトルティーの消費拡大によるものと考えられる。当初のウーロン茶、紅茶飲料の伸び、そして、2000年頃を境に緑茶飲料が需要を伸ばしたことが、こうしたお茶の消費回復につながっていると考えられる(図録0480参照)。

 ボトルティーは、手軽にお茶を飲めるという点では、かつて農作業の合間に土瓶で何回もお湯を注いで出して飲んでいた番茶の再来という面もあり、忙しい時代、味、刺激と水分補給を効率的に実現する方式として根強い需要が続くのではないかと思われる。

 一方、輸入は、生産が1970年代後半から頭打ちになって以降、1980年代に入って、急増しはじめ、茶の国内消費の伸びを支える存在として大きな役割を果たすようになっている。

 もっともこうした消費の伸びは2004年をピークに、輸入は2001年をピークに下降に転じている。

 近年では、品質への高い要求、海外農産物の農薬問題等から、国産茶へのニーズも高まり、ボトル茶についても、国産茶葉使用が自主的にうたわれることもあり、さらに今後原料茶の産地表示が義務づけられる可能性が高いため、輸入と言うより国産茶への流れが顕在化しつつある。2006年に施行された農薬のポジティブリスト方式規制も中国茶輸入を抑制する方向に働いていると言われる。

 また、政府は攻めの農政というキャッチフレーズで農林水産品の輸出拡大に取り組んでおり、世界的な健康ブームに応え、海外での寿司や日本食の需要が拡大しているため、これに伴って、日本茶の輸出が見直される可能性もある。実際、茶の輸出量は近年増加傾向を続けている。

 中国の胃袋は巨大であり、人口1人当たりのお茶の消費量が現在のところ世界平均を下回っていることを考えるとお茶のルーツである中国の需要が伸びると世界的な茶の供給不足が起こる可能性もないとはいえない(図録04760300参照)。

 上で見てきたように日本のお茶は長い歴史の中で変転を繰り返してきたが、再度、大きな転換点にさしかかっているのかも知れない。

(参考文献)
角山栄「茶の世界史―緑茶の文化と紅茶の社会」中公新書(1980)
高宇政光「お茶は世界をかけめぐる」筑摩書房(2006)

(2006年9月5日収録、2015年9月26日更新、2019年2月28日ポー引用)


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